*膵臓ガンは発見されにくく、治った例は珍しいと聞いたことがあります。宮城県にお住まいの上杉美華さんは、25年前に膵臓ガンになりましたが、今も元気に暮らしておられます。上杉美華さんのお話を聞き、まとめました。その1/3をご紹介します。残りは希輝通信(きららつうしん)に掲載しています。
*9歳で肝臓疾患に
美華さんは1960年7月17日、早産で1980グラムの未熟児として生まれました。
100日間保育器に入った後、無事に退院し、未熟児であることが嘘のように健康に育ち、いつのまにか肥満児になっていました。
ところが9歳になったころから体重が徐々に減少し、時々噴水のように食べたものを吐き、1年で10キロ近くも体重が減少。そんな12月のある日、顔が黄疸で真っ黄色になり、尿もあまり出なくなりました。
早速入院した美華さんを、代わる代わる何人も医師が診察にやって来きます。そして、「肝臓がんで1週間もたないだろう」と両親に告げたのです。
親戚が集まり、ただならぬ雰囲気のなか、手術をしても無駄だと告げる医師に、美華さんの母親は、「助からなくても良いから、お腹を開けてみて下さい!」と何度も懇願したと言います。
仕方なく医師は手術を承諾しました。
開腹手術をしてみると、ガンではなく「総胆管拡張症」という病気でした。
生まれつき胆管に腫瘍があり、それが9年の月日をかけて大きくなり、腫瘍が胆管を塞いでしまっていたのです。胆汁を流すバイパスを作り、一命を取りとめました。しかし、肝臓も悪く、肝硬変の一歩手前の状態であることが明らかになりました。
退院後も肝機能の数値がなかなか正常には戻らず、「油物は食べてだめ」「運動はだめ」と制限はありましたが、学校には何とか登校できていました。
時々、検査結果が悪くなり(GDPが400を超える)入院して、院内学級で勉強することもありました。
「院内学級の友人たちは、どこか同志のような安心できる存在でした」という美華さん。
ただ、重い病気の友人が次々亡くなり、「転院したのよ」と看護師さんが嘘を言っても、ショックで、自分は生きているだけでしあわせなんだと感じていたそうです。
中学校は、「受験勉強をする体力はないかもしれないから」と両親の勧めもあり、中高一貫の女子校に進学をしました。この頃も肝機能の検査で悪い値が出るたびに入院をしていました。
ある日、吐き気と腹痛が始まり、学校で動けなくなりました。検査の結果、腸閉塞でした。
腸の一部を切ったのですが、その後はなぜか肝機能が正常値に近くなり、身長も伸び、体がずんずん成長しました。
20歳のとき、腰に鈍い痛みを感じ、なぜか「病院に行かなければ」と思いました。検査後
、何も聞かされず即日入院することになりました。
美華さんの膵臓の頭部には、こぶし大の悪性腫瘍ができていました。
ガンとは知らされず、「肝臓の手術」と聞かされ、16時間に及ぶ手術が行われました。
胃の2/3を切除、胆嚢摘出、十二指腸摘出、膵頭部摘出・・・。術後の壮絶な痛みに、「私がいくら泣いても、この痛みが消えることはない。
誰もわかってはくれない。私が強くなるほかない。強くなれ!強くなれ!」と心の中で叫んだそうです。
術後、抗ガン剤治療が始まりました。紫色の点滴。副作用で吐き気に悩まされ、髪の毛が抜けていきます。あるときは、運ばれてきた食事が砂のように感じ、外に放り投げました。あまりの具合悪さに自分で点滴の針を抜き取ったこともありました。
その点滴の色は、同室のガン患者と同じでした。美華さんはまだ自分の病気がガンであることを知らされず、うすうすわかってはいても、両親には怖くて訊くことができなかったのです。
医師に尋ねても、「髪の毛が抜けるような薬は出していないよ」と否定されました。
「ガン=絶対に助からない、死の病気」と思われていた時代でした。
今とは異なり、患者本人にガンであると告げられることはありませんでした。
「この薬は抗ガン剤ではない」と強く強く自分に言い聞かせた美華さん。認めてしまったら、精神的にダメになってしまうような気がしたのです。
〜〜〜〜→つづきは希輝(きらら)通信へ〜〜〜〜〜〜
●編集担当・しろがねの感想
美華さんは、幼い頃から病気と闘う人生で、体育の授業など普通にできないことがたくさんありました。その上20才で膵臓ガンになり、臓器の一部も失いました。
でも、美華さんが「宿命」と呼ぶそんな壮絶な人生に、「あきらめない、負けたくない。強くなるしかない」と必死で闘う姿に、文章を編集しながら、感動し、うるうるしました。
そして、「夢は見るものではなく、かなえるもの。やりたいことがあるから、寝てられない」と、前向きに生きる美華さんの言葉に刺激を受けました。一日一日をさらに大事にしようと思いました。小さい夢ですが、私の夢もかなえるように!
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